おみそです。
最近テレビで「認知症」や「介護」の特集をみる機会が多くなった気がします。
なんとなく眺めていた番組でも「認知症・介護」についての内容だと、いろいろ考えながら見てしまいます。
世間でも「人生100年時代」と言われ、もはや5人に1人は70歳以上という、とんでもない超高齢化社会を迎えている日本です。どのメディアも深刻な社会問題として取り上げざるを得ないのでしょう。
参考サイト⇒5人に1人は70歳以上 総務省、高齢者の推計人口を公表 女性の高齢者は2000万人超|産経新聞
ぼくの祖父はぼくが小さいときに亡くなり、祖母は2年前に亡くなりました。
ぼく自身も家庭を持ち、夫として父として毎日を過ごしていますが、同時に「息子」としてそろそろ「親の介護」を意識し始める年齢になってきました。
うちの両親はまだボケてもないですし体も元気ですが、いつ「その時」が来てもいいようにある程度の覚悟は持っておいたほうがよいと思うのです。
この記事はぼくと同世代、子育て奮闘中のパパママにはもちろん、まだ結婚もしていない若者にも読んでいただきたいです。
「まだ早いでしょ。」という声も出てきそうですが、早くていいのです。
認知症や親の介護について、今のうちから考えてみる機会をもつことはいいことです。
目次
「親の介護」を意識するようになったキッカケ。

ぼくの母はケアマネージャーとして居宅介護支援事務所を経営しています。
そのため普段から介護の話や、認知症のお年寄りの話をよく耳にしていましたし、祖母がデイサービスに通ったりしている姿もよくみていました。今の時代、3世代同居の家ならよくある光景だと思います。
そんな生活環境から「介護」というものに触れる機会は多くありました。しかし自分自身が親を介護をするというイメージは全くなく、「まだ先のこと」として深く考える事はしていませんでした。
しかし以下のことをキッカケに、「親の介護」を真剣に考えるようになりました。
自分自身の結婚と娘が生まれたこと。
まず一つ目は自分が結婚したこと。それと娘が生まれたこと。
喜びでいっぱいになる出来事ですが、よく考えたらぼくに娘がうまれたことでぼくの両親は「おじいちゃん・おばあちゃんになった」のです。
当たり前のことですが、孫が1歳、2歳と成長すればおじいちゃんおばあちゃんも同じように年をとるわけです。(ぼくも年をとります。最近腰がヤバイ…。)
そう考えると、日々成長していく娘の姿を喜ぶ一方で、「うちの両親がいつ体を壊すか、いつボケ始めるのか」などをうっすら意識するようになったのです。
祖母の死。
ぼくの祖母は2年前くらいに亡くなりました。
娘が生まれて半月も経たないくらいでした。
それまでなんとか元気にデイサービスに通っていましたが、確実に認知症は進行していて、たまに帰省する孫(おみそ)のことが徐々に分からなくなっていました。かろうじてぼくの父(祖母からしたら息子)の名前は覚えていたし、母のこともなんとか分かっていました。
下の世話はほとんど手がかからなかったようで、自宅ではポータブルトイレを部屋に置き、定期的に父が片付ける程度でした。デイサービスでも失禁はなかったと聞いています。
元気な頃の祖母はチャキチャキした人で、孫にも厳しい人でした。プライドも高い人だった気がします。そんな人柄がそうさせていたのかもしれません。
そんな祖母が亡くなりました。
それまで父も薬の管理やポータブルトイレの掃除、デイサービスへの送り出しなど、なにかと忙しくしていましたが、祖母が亡くなってからは急にやることが少なくなったため、「張り合いがなくなった」と感じているように見えました。
きっと、ここで油断すると父も一気にボケていたかもしれません。
しかし孫(娘)も生まれていたので遊んであげたり、面倒をみたりといい意味で「スライド」できた気がします。
テレビやメディアでの特集。
冒頭で述べたとおり、介護に関する特集が多くなってきている気がします。
ぼんやりテレビを見ていたら認知症や介護の特集がはじまったり、ボケを予防するコーナーがやっていたり…。
日本の「超高齢化」は深刻な社会問題になっており、今後の日本の大きな課題です。
そんな時代を反映する話題をみていると、「不安」というか「ちゃんと将来について考えなければ。」という思いになります。
また、65歳未満で発症する「若年性の認知症」という可能性もあるため、「うちの親はまだ若いから大丈夫でしょ。」とは言い切れないのです。急に物忘れがひどくなったとか…。
参考サイト⇒もしかして若年性認知症? – 若年性認知症コールセンター
「ボケること」は悲しみを軽減する防衛本能。

ぼくの祖母がどんどんボケていって、孫のことや家族のことが少しずつ分からなくなっていったのはある種の「防衛本能」だと思っています。
年をとれば「死」に近くなります。いざ死ぬとき、大好きな家族のことや楽しかった思い出が多すぎると死ぬことが余計に悲しいものになります。
だから、「死」に近づくにつれて大切な人のことや大事な思い出を少しずつ忘れていって、なるべく悲しみが少ないように死んでいく準備なのかもしれません。
賛否両論いろんな意見があると思いますが、ぼくはこのように考える事にしました。
「おばあちゃん」がボケていって、孫であるぼくのことが分からなくなっていった。ぼくのことは『デイサービスの職員』だと思っていたらしい。
ぼくは子どもの頃、おばあちゃんっ子だったわけではありませんが、やっぱり忘れられるのは悲しかったし寂しかったです。
でも「死にゆく準備」「悲しさを軽減」というふうに人間の防衛本能と考えれば、少しは気が楽になる気がします。
今から覚悟と準備をしておく。

さて、うちの両親はまだまだ現役、元気です。
しかし、確実に年老いて「介護を必要とする時期」が訪れます。
その時、そんな両親の側で面倒を見なければならないのが息子であるぼくです。
単なる物忘れから始まり、家族のことを忘れ、しまいには食事を摂ることも忘れてしまう認知症。
若年性認知症も話題になる今、いつ「そのとき」が来てもおかしくは無いのです。認知症でなくても事故や怪我、重篤な病気で後遺症が残り、介護が必要になるかもしれません。
自分の親がそうなったとき、しっかり現実を受け止め、守っていけるような自分にならなければなりません。そのためにも今から「親の介護」について学び、ある程度の覚悟を持っておくべきでしょう。
まとめ

いかがでしたか?
結婚してる人もしてない人も、20代だろうが30代40代だろうが、いつかはくる「親の介護」について今から考えるというのは大事なことだと思います。
ある時からぼくやあなたも「守られる側から守る側」になっていくのです。
幸か不幸か、医療技術の進歩により年々平均寿命は伸びています。
そのため90歳は当たり前、100歳のお年寄りももう珍しくありません。
健康寿命という言葉も話題になっていますが、母の事務所のお客さんにも「体は元気でも重度の認知症」という方は多くいるようです。そういった人を家族で面倒をみるのは想像以上にキツイものだと思います。
もし自分の親がそうなったときに絶望しないように、今までと変わらずお互い笑って生活できるように、今のうちから介護保険制度やさまざまな介護サービスについて調べ、勉強しておきましょう。
そして遠い将来、「ぼくたち自身」も介護される側になっていくのですから…。
では。